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ジュリー下戸の歌舞かれて東京

歌舞伎のイヤホンガイド解説員になるのが夢のイチ歌舞伎ファンが書いているブログ

3.11 中間被災者の孤独

3.11

こんにちは、ジュリー下戸です。


1か月後、また3月11日がやってきます。これから、宮城県生まれ岩手県育ち東京都在住のわたしの話を書きます。ずっとずっと考えてきたことを、今まとめて形にしておきたいと思いました。先に言っておくと、あの日わたしの血縁者はひとりも死にませんでした。本当に奇跡のようなことです。

当時わたしの父方の祖父母は宮城県名取市に、母方の祖父は気仙沼エリアに住んでいました。わたしはというと、大学進学のため家族と離れひとり上京しており、あの日もやはり東京にいました。

 

わたしは京王線沿線の高幡不動というところでひとり暮らしをしていました。大学3年生の春休みを利用して、税務署で確定申告の書類をまとめるアルバイトをしているところでした。大きく長い地震で、積んでいた書類がなだれを起こして、みんなが嫌な顔をしました。この数日前にも、大きな地震があったばかり。その地震宮城県震源だったことを思い出しながら、床に落ちた書類を拾いました。

休憩時間に入り、給湯室に入ったときです。先に休憩に入っていたパートのおばさんたちがわたしの顔を見るなり、
「ねえ、ジュリーさんって、岩手の人じゃなかった?」
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「そうですけど」と答える自分の声が、とても遠くに聞こえました。ちょうど、釜石に津波が到達したところでした。

気仙沼のじいちゃんには、夕方電話が繋がりました(ラッキーでした)。電話の向こうは、周囲にもたくさんの人がいる様子で、がやがやと雑音が聞こえます。

 

「ジュリーかあ」
「じいちゃん、ニュース見たの、大丈夫?」
「大丈夫でねえ、もうすぐそこまで水がきた。今みんなで逃げてる。もう全部ダメだ」
「みんないるの?」
「ああ、みんないる。みんないるけんども、もう全部ダメだ」
「なるべく高い所さ逃げてね。絶対に逃げ切ってね。充電できなくなるべから、電話切っからね。じいちゃん、気をつけてね」

 

電話を切る手がぶるぶると震えました。その後、名取の祖父母と岩手の家族に電話をかけましたが、繋がりませんでした。それきり、数ヶ月先まで声を聞くことはかないませんでした。

インターネットの中、岩手県民と宮城県民が多く暮らすわたしのFacebookのタイムラインは、互いの(そして家族の)生存確認のために、めまぐるしく更新され続けていました。「〇〇さんが結婚しました」というステータス更新のお知らせや、わたしがタグ付けされたバイト先の飲み会の時の写真が、どんどんどんどん、画面下方へ追いやられていきました。「生きています」「無事です」「避難しています」「〇〇と連絡がとれません」...
わたしも、投稿をしなくてはいけない。無事を知らせなくては。

Facebookがいつものように尋ねます。
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気仙沼の市街地が燃えています。わたしのよく知る街、海水浴場、港、商店街、コロの散歩道、じいちゃんの家、母の大切な故郷。わたしは顔を覆って泣きました。
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東北の3月が、どんなに寒いか知っています。避難所で、いったいみんなどんなに寒い思いをしているだろう。停電した家で、母はこの映像を見られただろうか。自分の街がこんなになって、母はどんな思いでいるだろう。明日になれば、朝が来て、陽が昇って、すっかり変わり果てた街が明るみに出る。朝が来るのが、たまらなく怖い。
わたしは顔をぐじゅぐじゅにしながら、Facebookの問いへの答えを見返しました。
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ごめんなさい。
ごめんなさい。

夜があけ、世界はひっくり返っていました。母に「危ないから帰って来るな」と言われたわたしは、東京に残るほかありませんでした。月曜日がやってきて、またわたしは仕事に向かいました。確定申告の書類は相変わらず山積みで、税務署には多くの人が訪れ、みな忙しく働いていました。わたしもひたすらに、郵便物を開封し続け、書類を仕分け続けました。津波のことなどなかったかのようです。むしろ、普段何を話していいか分からないアルバイト同士の会話の種になって、職場は活気づいてすらいました
わたしは心ここにあらずでした。昨日の夜の火災以降、気仙沼にいるじいちゃんと連絡がつかないのです。わたしは津波発生直後に声を少し聞いただけで、あの火災の中じいちゃんたちがどう過ごしたのか、知りません。生きているのかどうかも、分かりません。
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もしかしたらじいちゃんは、あの火災の中で死んでいるかもしれない

 

アルバイトのスタッフたちは、わたしが東北出身だと知っているので、もし万が一家族の中に死人でも出ていたら大変と思ってか、津波の話を避けているように思われました。けれど、あの規模の災害が話題にのぼらないのはかえって不自然というものです。
地震、ヤバかったですよね~!わたし、出身が岩手なんですよ~。あ、でも実家は内陸なので、津波被害は受けなかったんですよ~。マジラッキーでしたよ、春休みだから帰省しようか迷ってたんですよね~。しなくてよかった~英断~」
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台詞をしっかり考えて、会話のはじめにちゃんとわたしから言っておくことがルール化していきました。この台詞は、以後ずっと、わたしと相手の会話の空気感を守るのに一役買い続けました。地雷を踏んだような顔を相手がする前に、わたしは必死で場の空気を保とうとしました。相手がちゃんとホッとした顔をしたかどうか、じっと観察する日々でした。

中間被災者の孤独

誰にも言わないでいましたが、わたしは自分のことをひそかに「中間被災者」と分類することにしていました。被災地に人生の大半を残しながら、自分は別の土地で、被災地に円も縁もないような人に囲まれて暮らしている。家族のほとんどが被災しながらも、自分は直接被害を受けなかった。被災地のことばかり思いめぐらすのに、自分の周囲は「話の種」程度...仕事をしている間は、津波のことも忘れられる。忘れるわたしは、薄情か?本当は、すぐにでも家族のそばに駆けつけるべきではないのか?そう思案するわたしの目の前に、新たな書類の山が積み上げられます。
わたしは宙ぶらりんで、とても孤独でした。
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「ひどかったね」「つらいね」と、一致団結する被災地が羨ましいと思いました。共通のつらい経験をもとに、みんなで乗り越えていこうと前を向きだす被災者に、あの時のわたしはあろうことか嫉妬していました。こんな思いをするくらいなら、いっそわたしも被災したかったとすら思いました。どんなにボランティアをしても、募金をしても、そこに家族がいようとも、わたしは「被災者」になることはできません。かと言って、全く無関係なコミュニティの人々のように、震災バラエティ番組の舞台として被災地を見ることもできません。そこはわたしが暮らした土地で、被災者はわたしと血の繋がった家族なのです。わたしには、被災地の中にも外にも居場所がありませんでした。

闘い

わたしがこんなことをブログに書いて、一体何がしたいのかと申しますと、別になんてことはなく、あの日恐怖と孤独に震えた「中間被災者」は、たくさんいただろうなと思ったのです。仕事や学業のため、故郷を離れて暮らしていた人が。家族の誰かが死んだかもしれないし、わたしのように、誰も死なかかったかもしれませんが、そんなことは関係ないのです。

 

みんな、あの日、辛かったよね。
家族がみんな、自分をおいて死んでしまったと思ったよね。
f:id:jurigeko:20170204201133j:image 波の形がそのまま。傍に立つと足がすくみます。
津波にのまれる建物の中にいたかもしれないあの人を思って、テレビの前で「早く逃げて!」と叫んだよね。
f:id:jurigeko:20170204201251j:image 2011年6月。川は静かです。
眠りから覚めたとき、自分がいつも通りの布団で目覚めることに、罪悪感を抱いたりしたよね。
f:id:jurigeko:20170204201333j:image じいちゃんの家。一階部分は何もありません。
ニュースで自分のよく知る(普段では絶対に流れない)地元の地名が、死者の数とともに列挙されるのを、呆然と聞いたよね。
f:id:jurigeko:20170204201157j:image スプレーでのメモはあちこちで見かけました。
PTSDになりかけて「被災してもいないのに」と、力なく笑ったりしたよね。
f:id:jurigeko:20170204201315j:image 車がこんなになる津波って...
いつも通りの生活に戻りつつある周囲を疎みながらも、そのリズムに乗らざるを得なかったよね。
f:id:jurigeko:20170204201235j:image 「瓦礫」とはとても呼べません。
「田舎だったから良かったけどさ、アレが関東だったら、ディズニーランドとかヤバかっただろうね」という無邪気な世間話に、むりやり話を合わせたりしたよね。
f:id:jurigeko:20170204201221j:image 「完了」マークはよく見かけました。
目を反らしちゃいけないと自分を追い込んで、つらいのならば見なけりゃいいのに、何度も何度も津波の映像を見続けたよね。

 

わたしたちは完全なる当事者にも、まったくの部外者にもなれず、心の在り処と身体のあるべき場所はかけ離れていて、夢の中のようにフワフワした感覚で日々を過ごしました。
そして、いままでの日常が、生存確認、放射能の不安、美談やデマ、色々なものによってタイムラインのかなたへ追いやられていくのを、なすすべもなく見つめていました。それはインターネット上で起きたもうひとつの津波でした。わたしたちの手の届かない場所で、かつ、わたしたちの目の前でそれは起こりました。

悲しみは比較できない

わたしたちの「辛い」という気持ちは、家族や家がなくなった人に比べたら、軽度に思われるかもしれません。中間被災者は、そうやって口をつぐんできました。言うべきでないと思っていたのです。「わたしたちよりもっと辛い人がいる」「あの人に比べたらうちはまだマシ」と。今だって、わたしはまだそう思っています。
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でも、あの日「直接被災しなかった自分」を、「直接被災しなかったのに苦しんでいる自分」を責めたのは、大きな間違いでした。わたしたちには、苦しむ資格がありました。その苦しみは個人的なもので、人と比べて大小をつけられるものではなかったのです。

3.11のせいで地震に対するハードルが上がったため、あれから何度も大きな地震が起きましたが「3.11ほどじゃない」「津波が起きなかっただけマシ」と思いがちです。でも、関係者のショックの度合いを比較することなどできません。自分の悲しみを、他の人と比べて殺してしまうことは、震災そのもののショックと同じくらい苦しいことなのです。

 

苦しいときは、嘘をつかずにしっかり苦しんで良くて、そして被災地の家族や友人とともにゆっくり立ち直っていければ良いマグニチュードや死者の数より、これからは絶対に、自分の心の動きの方を信じていたい。美談に尾ひれがつき、デマが本当のこととして語り継がれていこうとも、あの日のわたしたちの感情だけは真実です。

何度3月11日がめぐってきても、笑って話せる日など絶対に来ません。3.11以前の世界は戻ってきません。だから、もう嘘をついている暇はありません。

 

ジュリー下戸でした。ありがとうございました。
2017年2月11日